ブックタイトル未来へ伝えたい阿武の昔ばなし

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概要

未来へ伝えたい阿武の昔ばなし

宇田の千人塚ちふさがって前に大きく立た。毛もう利り氏しの制せい圧あつしまし防ぼう長ちょう二国をれを落として久ひさを攻せめ、こ田だ城じょのう尼あま子ご義よし国、月がっ山さん富と元もと就なりは出いず雲もの十一月、毛もう利り(一五六六)代だい、永えい禄ろく九年時は戦せん国ごく時じ宇う田たの千せん人にん塚づか戦せん国ごく時じ代だのい激げ戦せき地ちの跡あんと〔資料提供堀伝吉氏〕伝つたえられています。際さいにこの千せん人にん塚づかからおびただしい人じん骨こつが発はっ掘くつされたと昭和の初はじめ頃ごろ、鉄てつ道どう建けん設せつの時、山を切り取る工事の千せん人にん塚づかと呼よばれました。その戦せん死し者しゃの冥めい福ふくを祈いのって里人たちが葬ほうむった塚つかは、あったそうです。体)は累るい々るいとして山をなし、目を覆おおうばかりの惨さん状じょでう両りょう軍ぐんが向かい合って戦たたっかたところで、戦せん死し者しゃの屍かば(ね死と毛もう利り氏しの激げき戦せんの地でした。出で城じろもしくは砦とりでを張はり、永えい禄ろく年ねん間かん(一五五八~一五七〇)、トウノウは尼あま子ご氏しろに若わか宮みやの地名があり、現げん在ざいもお宮が残のこっています。また今いま浦うらの西にし目めにある通つう称しょ「うトウノウ」というとこ昔は祠ほこがらあって神様がまつってありました。さて、宇う田た元もと浦うらの上うえの山に城しろ山やまという地名があり、いた山さん陰いんの雄ゆう、尼あま子ご氏しはここに滅めつ亡ぼうしました。99