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概要

未来へ伝えたい阿武の昔ばなし

奈古浦の神輿歌鬼おにが出ると風ふう刺ししているのです。屋や地区は製せい塩えんの釜かまが多くあって、地じ獄ごくの釜かまにたとえてを借かりて苦くるしい思いをしていたので地じ獄ごくだといい、釜かま業ぎょをうなりわいとしながら、両家から屋や敷しき、土地、お金で西地区を極ごく楽らくといい、浜はま崎さき地区は漁ぎょ村そんで、人々は漁ぎょこれは、西村、中村という二軒けんの大金持ちがいたの巡まわっていました。ながら神み輿こしを担かつぎ、町内をヤサッ、ホヤサッ」と歌い釜かま屋やの橋から鬼おにが出る、ホ「西は極ごく楽らく、浜はま崎さきは地じ獄ごく、昔から奈な古ごのお祭りでは奈な古ご浦うらの神み輿こし歌うた歌になった奈な古ごの暮くらしぶりが〔資料提供西村信海氏〕なくなりました。にまっすぐ海に流れるように工事が行われて水すい害がいが少ていましたが、利とし亮すけ氏しが県けん会かい議ぎ員いん在ざいし職ょく中ちゅ、う現げん在ざいのよう川は昔からたびたび氾はん濫らんして田畑が流れ、村人は困こまっまた中村家は昔、酒しゅ造ぞう業ぎょをう営いとんなでいました。奈な古ごの捕ほ鯨げいの先せん駆く者しゃで有名な岡おか十じゅう郎ろう氏しは同家の出身です。三さん四し郎ろう氏しが萩はぎの豪ごう商しょうである熊くま谷や家に養よう子し入りました。金三百両を貸かしたほどの豪ごう商しょうでした。西村家からは、ら蝋ろうを作って財ざいをなしました。その後、萩はぎ藩はん毛もう利り公こうにした。西村家は領りょう主しゅ徳とく山やま藩はん毛もう利り公こうの指し示じでハゼの実か奈な古ごは元げん和な七年(一六二一)、徳とく山やま藩はんの領りょう地ちとなりまたので「釜かま屋や」と呼よぶようになりました。「釜かま屋や」は、製せい塩えん業が盛さかんに行われ、塩しお釜がまが多くあっます。せんが、江え戸ど時じ代だいの奈な古ご浦うらの様子がよく表ひょう現げんされていこれはとても興きょう味み深ぶかいことで、誰だれの作かはわかりま26