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概要

未来へ伝えたい阿武の昔ばなし

尼子氏と大覚寺坊ぼう様さま)作の十じゅう一いち面めん観かん音のん像ぞうを奉ほう納のうして建たてた真しん言ごん宗しゅのうおて来た永えい満まんというお坊ぼう様さまが、行ぎょう基き(奈良時代の偉えらいおこの光こう應おう寺じはそれよりずっと昔、奈な古ごの補ふ陀だ山さんにやった。たどり着いたのは光こう應おう寺じという寺でした。毛もう利り氏しに従したっがていた尼あま子ご義よし久ひさは、出家して奈な古ごに来まし康やすの東とう軍ぐんに敗やぶれ、長なが門と(今の山口県)に追いやられると、戦せん国ごく時じだ代いの終わり、関せきヶが原はらの戦たたいかで毛もう利り輝てる元もとが徳とく川がわ家いえ寺の開かい基きとなったのでしょうか。ます。出いづ雲も地方を支し配はいしていた尼あま子ご義よし久ひさがなぜ奈な古ごのの家か紋もん「四ツ目結ゆい紋もん」が残のこされ、縁えんの深さを伝つたえていの縁えんから始まりました。本ほん堂どうの屋根瓦がわにらは今も尼あま子ご氏し奈な古ごの大だい覚かく寺じというお寺は、戦せん国ごく大だい名みょ・う尼あま子ご義よし久ひさと尼あま子ご氏しと大だい覚かく寺じ戦せん国ごく大だい名みょ・う尼あま子ご義よし久ひさ名めい刹さのつ開かい基きは毛もう利り氏しとの戦たたいかに敗やぶれ、今度はその毛もう利り氏しが関せきヶが原はら天てん粧しょう寿じゅ心しんが義よし久ひさの父・尼あま子ご晴はる久ひさのいとこだったのです。粧しょう寿じゅ心しんが光こう應おう寺じの二代目住じゅう職しょにくなりました。実はこのそれから十七年後に永えい舜しゅん和お尚しょはう他界し、後あと継つぎの天てんになられたのです。を永よう明めい寺じと同じ曹そう洞とう宗しゅにう改あらめた、ご自分が光こう應おう寺じの開かい基きれこれ手を尽つくして光こう應おう寺じを建たて直されました。宗しゅう派はたいない」と心を痛いため、あうに放っておくとは、もっれた立りっ派ぱな観かん音のん像ぞうをこのよいうことだ。行ぎょう基き様が作ら尊そん像ぞうを見た和お尚しょはう「なんと放り置おかれた十じゅう一いち面めん観かん音のんこを訪おとれずました。寺もなく、ある永よう明めい寺じの永えい舜しゅん和お尚しょがうこ年も過すぎた頃ころに、津つ和わ野のにえてしまいましたが、五百寺でした。その後、寺は絶た30