ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

未来へ伝えたい阿武の昔ばなし

尼子氏と大覚寺して数年の間に義よし久ひさの姉と続つづきませんでした。引っ越こ日々は、残ざん念ねんながら長くはでも、一族そろってのいでいたかもしれません。も結むすばれており、心は安らは、天てん粧しょう寿じゅ心しんとは仏ほとけの縁えんで友ゆう林りんと名乗っていた義よし久ひさものだったのか、出家して奈な古ごでの暮くらしはどんな久ひさ、秀ひで久ひさらも引き連つれて引っ越こして来たのです。の糸に導みちかびれ、奈な古ごで生きると決めた義よし久ひさは、弟の倫とも元もとからの命めい令れいもあったことでしょう。さまざまな運命です。もちろん「長なが門とで暮くらすように」という毛もう利り輝てるる」と、義よし久ひさは天てん粧しょう寿じゅ心しんを頼たよりに奈な古ごにやって来たの「奈な古ごの光こう應おう寺じに行けば、大おじ様が住じゅう職しょをくしておられとって、天てん粧しょう寿じゅ心しんとの縁えんは、ありがたいものでした。の戦たたいかで東とう軍ぐんに敗やぶれて、弱い立場になっていた義よし久ひさに取材協力大覚寺〕『尼子氏から見る戦国時代の山陰地方』〔参考資料『阿武町史』が建たっています。の尼あま子ご義よし久ひさ公こう墓ぼ所しょには義よし久ひさのお墓はかを中心に六つのお墓はか大だい覚かく寺じには今も義よし久ひさの衣い冠かん姿すがのた木もく像ぞうが残のこされ、後山は名めい僧そうと言われた天てん粧しょう寿じゅ心しん大和お尚しょもう亡なくなりました。がある菩ぼ提だい寺じとなったのです。義よし久ひさが世を去った翌よく年としにのお寺の開かい基きは義よし久ひさとされ、大だい覚かく寺じは尼あま子ご氏し代々の墓はかせて寺の名も大だい覚かく寺じに変かえられました。その時からこ義よし久ひさの法ほう号ごうは大だい覚かく寺じ殿でん大だい圓えん心しん覚かく大だい居こ士じとされ、合わる後山に葬ほうらむれたのです。に波は乱らんに満みちた七十一年の生しょう涯がいを閉とじ、兄弟たちが眠ねむこと尼あま子ご義よし久ひさも慶けい長ちょう十五年(一六一〇)八月二十八日いずれも光こう應おう寺じの後山に葬ほうらむれました。そして、友ゆう林りん弟・倫とも久ひさの妻つま、さらには下の弟の秀ひで久ひさまでが亡なくなり、31