ブックタイトル未来へ伝えたい阿武の昔ばなし
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未来へ伝えたい阿武の昔ばなし
宇生賀の浮田ら山が突つき出しており、川かわ幅はばもせまくなって梅つ雨ゆ時どきにはところが、黒くろ川がわ付ふ近きんでは、都合の悪いことに、両りょう側がわかすばらしい水すい量りょとうなっているわけです。みました。これらの水が流れ流れて、黒くろ川がわのあたりでは四方の山から流れ出す水はすべて田んぼの溝みぞに流れ込こ建たてられていました。人々の住む家は田んぼのまわりの片かた上あがりのところに田んぼは百町歩(※)あったと言われています。れて盆ぼん地ちを形かたち作っており、その中央部分は沼ぬま田たでした。はけの悪いところでした。宇う生ぶ賀か地ち区くは四方を山に囲かこま知ることは、なかなか難むずしかいことですが、昔はとても水古い時代の宇う生ぶ賀かがどのようにしてできてきたのかを宇う生ぶ賀かの浮うき田た〈宇う生ぶ賀かの七なな不ふ思し議ぎ〉水があふれても田は浮ういて〔参考資料『福賀村郷土誌』〕宇う生ぶ賀かの田は約百ヘクタールです。※百町歩=一ヘクタールとされています。現げん在ざい、れてしまうことはめったになかったと言われています。たくわえられて自し然ぜんと土地が浮うき上がるために、稲いねが流た。これは洪こう水ずいの時も同様で、雨が田んぼの土の下にのあいだあいだに見えて、隠かくれることはありませんでした稲いねの葉が水面んぼに植えられ議ぎなことに、田しかし、不ふ思しいます。うに見えたとい全体が湖こ水すいのよふれ出し、盆ぼん地ち田た一面に水があす悪くなり、沼ぬま水はけがますま52