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概要

未来へ伝えたい阿武の昔ばなし

牛庵堤領りょう地ちを減へらされて苦しい状じょう況きょうを立て直すため、藩はんで田だの七なな尾お城じょをう明け渡わたして須す佐さに移うつってきました。だった益ます田だ玄げん蕃ばの頭かみ牛ぎゅう庵あん入にゅう道どうも、石せき州しゅ(う今の島根県)益ます減へらされ、広ひろ島しま城じょをう明け渡わたして萩はぎに移うつりました。家か老ろう毛もう利り輝てる元もとは領りょう地ちを周すお防う・長なが門と(今の山口県)二ヶ国に慶けいち長ょう五年(一六〇〇)、関せきヶが原はらの合かっ戦せんのあと、大大名たのでしょうか。ばれるようになっます。なぜそう呼よ「牛ぎゅう庵あん堤つつ」みとも言いある「長なが沢そう堤つつ」みは、福田上かみの長なが沢さわに牛ぎゅう庵あん堤つつみこうしてできた稲いな作さくを支さえさる用水池は〔資料提供田中芳氏〕池で、私わたしちはその恵めぐみを受けています。庵あん堤つつ」みと呼よばれるようになりました。今も重じゅう要ような用水池は無ぶ事じに完かん成せいし、牛ぎゅう庵あん入にゅう道どうの功こう績せきをたたえて「牛ぎゅう黒な牝め牛うしを一頭生き埋うめにしたということです。切さを顧かえみりない暴ぼう言げんであるとして取り入れられず、真っ人ひと柱ばしをらたてようという意見も出ましたが、人の命の大途と中ちゅでう堤てい防ぼうが決けっ壊かいしかけるという事じ態たいが発生した時、難むずしかい大工事が進められました。便べん利りな建けん設せつ機き械かいなどありませんから、人の力に頼たよって、て、長なが沢さわの地に用水池を造つくることにしました。当時は聞いた牛ぎゅう庵あん入にゅう道どうは自ら出かけて、あたりの様子を調べ田地にするのに必ひつ要ような水が足りません」という報ほう告こくを「福田の地に広い土地があるのが見つかりましたが、した土地を探さがしてまいれ」と家来に命じました。いました。益ます田だ牛ぎゅう庵あん入にゅう道どうも「領りょう地ちをまわって開発に適てきは海岸の埋うめ立てや山野の開かい墾こんによる新田の開発を行64