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概要

未来へ伝えたい阿武の昔ばなし

加杖坂と首懸松なかなか越こせないので、誰だれが言杖つえをつかなければ歩きにくくにまた峠とうをげ登って行きました。の)の紐おを締しめ直し、杖つえを片かた手てで、草わら鞋じ(ワラで作ったはきもた。そして疲つかれがとれたところを売り歩く人)たちはふもとにある茶店で休きゅう憩けいしまし長い坂道のため、この峠とうをげ越こえる旅人や行商人(商品「加か杖つえ坂ざか」は宇う生ぶ賀か郷ごうと萩はぎ方面を結むすぶ主しゅ要よう道どうでしたが、んでいました。また原山台に行く途と中ちゅにうあった老おい松まつを「首くび懸かけ松まつ」と呼よ昔々、堀ほり越こしを通って宇う生ぶ賀かに行く坂道を「加か杖つえ坂ざか」、加か杖つえ坂ざかと首くび懸かけ松まつついたのかな?どうしてこんな名前が〔資料提供山本岩男氏〕が残のこっているそうです。なお、お隣となりの弥や富どみ地ち区くにも「首くび懸かけ松まつ」という地名たということです。その後、この松まつを「首くび懸かけの松まつ」というようになっと、切った首を松まつの枝えだにつるしてみせしめにしました。「皆みなの者、よく見ておけ。裏うら切ぎったやつはこうなるぞ」てきました。そこで裏うら切ぎり者を処しょ刑けいし、ましたが、領りょう民みんの中には陶すえ軍ぐんに味方する裏うら切ぎり者が出ありました。その頃ころ、萩はぎ・阿あ武ぶ郡ぐんは吉よし見み公こうが治おさめていし、石いわ見みの津つ和わ野の城じょう主しゅ吉よし見み公こうとの間にたびたび戦たたいかが昔、山口の大おお内うち義よし隆たかの家か臣しんである陶すえ晴はる賢かたが乱らんを起こた老おい松まつがありました。途と中ちゅ、う堀ほり越こしから越こえたところの境さかにいたいそう年月のたっこの加か杖つえ坂ざかのほぼ真ん中あたりにある原はら山やま台だいに行くです。うともなく「加か杖つえ坂ざか」と呼よぶようになったということ69