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概要

未来へ伝えたい阿武の昔ばなし

俊乗房重源上人ました。胸むねをなでおろしは驚おどろき、そしてです。村人たちようになったのき上がって働はたらくがり、次々に起人たちの熱ねつは下すると次第に病祈いのり続つづけました。病やまをい取り除のぞき、村人たちをお救すくいください」と懸けん命めいには正せい座ざしてろうそくに火を灯ともし、香こうを焚たいて「どうか音のん像ぞうと薬やく師し如にょ来らい像ぞうを自ら彫ちょう刻こくして村人に与あたえ、ご自身は、「なんとしても、村人を救すくわなくては」と、聖しょう観かん村の人々が苦しむ様を目の当たりにした重ちょう源げん上しょう人にん中に病気がうつって、今に村はほろびてしまうぞ」しい、苦しい、なんでこんな病気になったんじゃ」「村とうつっていき、病人の数は日々増ふえていました。「苦〔参考資料『阿武町史』〕さったのです。出されただけでなく、人々の苦しみも消し去ってくだ重ちょう源げん上しょう人にんは福ふく賀がの山から東とう大だい寺じ大だい仏ぶつ殿でんの用よう材ざいを切りという地名として今も残のこっています。萩はぎの香か川がわ津づへ移うつりました。医い徳とく寺じの跡あと地ちは「井い徳とく寺じ」寺じは数百年間続つづいた後、江え戸ど時じ代だいに跡あと取とりが途と絶だえ、薬やく師し如にょ来らい像ぞうの方は、医い徳とく寺じに安あん置ちされました。医い徳とく伝つたえられ、大事にされています。本ほん光こう院いんの本ほん尊ぞんの釈しゃ迦か如にょ来らい像ぞうも重ちょう源げん上しょう人にんが作ったものとの観かん音のん堂どうに大切に受け継つがれていきました。さらに置ちしました。この観かん音のん像ぞうは、それからずっと本ほん光こう院いん明みょう寺じと名づけ、重ちょう源げん上しょう人にんからいただいた観かん音のん像ぞうを安あん重ちょう源げん上しょう人にんに感かん謝しゃした村人たちは、やがて寺を建たて、円えん如にょ来らい像ぞうは、われらの守り仏ぼとけじゃ」などと口々に喜よろこび、た」「ありがたや、ありがたや」「この聖しょう観かん音のん像ぞうと薬やく師し「重ちょう源げん上しょう人にん様さまのお力で、おそろしい病気が消え去っ73