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概要

未来へ伝えたい阿武の昔ばなし

堂の峠江え戸ど時じ代だい、寛かん政せい年間(一七八九~一八〇一)以い降こうはじてその情じょう報ほうをすみやかに伝でん達たつしました。朝ちょう鮮せん通信使の航こう行こうなどについて、陸りく路ろまたは海路に応おう海岸線に配はい置ちされて、藩はん主しゅの発着の状じょう況きょうや幕ばく府ふの上使、―萩はぎ間、須す佐さ―萩はぎ間といった陸りく路ろ線せんと北きた浦うら(日本海)藩はん政せい時代の制せい度どでは山陽道や三み田た尻じり―山口間、長ちょう府ふ次へとのろしを受け渡わたす仕組みになっていました。山の上に設もうけられており、中ちゅう継けいの路線によって次からたいていの場合、周しゅう囲いを見み渡わたすことのできる小高いあげる「のろし場」という施し設せつがありました。いました。これを「のろし」と言い、各かく地ちにのろしを昔は合図や警けい報ほうを遠くに知らせるために煙けむをり使って堂どうの峠たお何の音?ドンッというのは〔資料提供堀伝吉氏〕「堂どうの峠たお」と呼よばれるようになったということです。で「ドン峠とうげ」と言っていたものが、いつの頃ころからかのろしを打ち上げるとき「ドン」と大きな音がするの井い部ぶ田たに「堂どうの峠たお」という地名があります。峠とうげで、に伝つたえていました。し場では須す佐さの金かな井い崎ざきのものを受けて、奈な古ごの東とうヶが嶽だけ田た部ぶの枇び杷わの首くび山やまの、のろ田た部ぶに「一いち里り塚づか」があり、の大おお崩くえ山やまに「遠とお見み番ばん所しょ」、このあたりでは井い部ぶ田たやしました。を設もうけ、のろしの施し設せつを増ふくを見るための高い建たて物もの)守るため、海岸に望ぼう楼ろう(遠するようになり、海岸線を外国船が日本の近海に出しゅつ没ぼつ90