カウンター
[PR] ポイントサイト 元気!あぶ町!5001

田 舎 で 暮 ら す

2005年春

文/茂刈達美(tatsumi mogari)  漁師、漁家民宿「浜の小屋」主人 山口県阿武町尾無

写真・構成/宮下裕史(hiroshi miyashita)  旅人 長野、埼玉、山口、高知、東京等各地転々

 

漁師のひとりごと by hama-no-koya since2010

http://hamanokoya.exblog.jp/

 


田舎で暮らす

本文

山口県の日本海に面して、尾無(おなし)という漁村集落がある。山が海の近くまでせりだした斜面には、石垣が積まれた田んぼと草薮になったその跡地。港を中心に軒先が重なる30戸余りの赤い瓦の家々。変わりゆく季節の中で人が暮らし、のんびり時間が流れる。

日本のどこにでもありそうな田舎の風景や風習がここにきて少しずつ変わろうとしている。時の流れに流されて長いものに巻かれていくことが地方の現実で、私たちの暮らしのなにかが失われる。

少子高齢社会と厳しい地方財政に対応するために住民は我慢もするが、街でも村でも本当に大切なものは、これから来る時代にも大切なもの。そんな田舎遺産もどこかに保存したい。

 


赤 い 瓦 の 集 落

 

島根県西部から山口県北部地方にかけての屋根は、赤い瓦の家が多い。この地方に古くから赤い瓦を焼く窯が多くあったから。近年は住宅事情も変わり、いろいろな屋根も増えてきたが、それでも赤い瓦の家はかなりある。色は焼き物の釉薬で赤い色になったと思う。強度もあり防水力にも優れているが屋根に上がるとよく滑る。この地方は冬になると日本海を渡る季節風が湿った重たい雪をはこぶ。その雪が屋根に積もるので滑りやすい瓦が焼かれたと思う。昔は集落の住宅を建てる時、木材や土壁などの材料は地場でまかなわれ、瓦は他の場所から運ばれた。家を建てる日は大勢の人が手伝い、柱や棟が組み上がると餅がまかれ、大人も子供も夢中になって拾った。今では田舎人口の減少と住宅産業の進出で、地元の大工さんや左官屋さんが建てる家も少なくなってきた。赤い瓦の屋根裏には大きな松の桁や梁で組まれた頑丈な日本家屋が多く、その家で何代かの家族が暮らしてきた。数百枚の赤い瓦で葺かれた家も人が住まなくなると一枚の割れた瓦から雨が漏り、いずれは家も傷みはじめる。働くところが少ない田舎、人が減れば空き家も増える。

どんよりした山陰の風景に、なぜか赤い瓦が似合う。

 


海 辺 の 田 ん ぼ  

昔の尾無は半農半漁の集落で、どこの家にも船と田畑があった。海に面した山の斜面は、水利があれば石を積み上げて田んぼにしたようで、我が家にも7反の棚田があった。何十年もその前から耕作されてきたと思うが、ここ数年は作付面積を少しずつ減らし、今我が家の田んぼはすべて草薮になった。

急峻な斜面に造られた段々の田んぼは狭く、小型の耕うん機で耕すが、方向転換できない場所もあった。棚田は田植えや稲刈りも大変でとにかく手間がかかる。辛抱して耕作してきたような気もするが、周りの田んぼも草藪が増えたので、いずれ先には元の山に戻ると思えば複雑だ。子供のころ、「なんでここまで耕すのか」と思ったが、地方の貧しい藩が財力をつけるために六つの白い産物を奨励したからと聞いた。米、和紙、塩、ロウソク・・・、うすらおぼえだが今考えても昔の人は偉い。田んぼにできない斜面は段々畑で、山ではコウゾ、ミツマタ、ハゼ、クワの木をそこらで見かけた気もする。

田んぼも減ってきたとはいえ、六月の水を張った海を見おろす棚田は昼間輝き、夕暮れに赤く染まり、夜になると漁火が眼下の暗闇に点々と映える。

 

 


山 陰 本 線

 

京都から山口県の下関市まで、日本海沿いに延びる山陰本線。山口県内は無電化の単線でトンネルや橋が多く、冬場は日本海からの季節風を横に受け、駅は多いが街が少ない路線。それでも自動車の少ない時代には長い貨物列車も走っていた。人の足はそれしかなく、通勤の人や元気のいい高校生で朝晩は混雑していた。蒸気機関車の六両編成から、今は一両か二両のワンマン・ディーゼル車に人が収まり、朝晩は高校生で混雑するが昼間は病院通いのお年寄りが数人乗るだけ。

無人の駅舎と海があるだけの宇田郷駅を出てしばらくの所に、海と川をまたいで架かるコンクリート作品のような橋がある。その橋から春のダイヤ改正で、旧国鉄カラーのまま何年も運行していた特急「いそかぜ」の姿が消えた。昼前と夕方に通過するだけで普段の足には関係ないが、沿線で暮らす住民は毎日決まった時間に通過する特急列車を時報がわりにしていた。これで山口県内の山陰本線を走る特急列車と急行列車のすべてがなくなった。

日本列島を網羅した鉄道、利便性と合理性の中で失われていく地方の路線。田舎暮らしも車の時代になったが、地方を走る特急列車がなくなるということは同時に地方がさみしくなるということ。

 

 


宇 田 郷 駅

 

海辺の無人駅は珍しくないが、周りに家もなにもない場所に宇田郷駅はある。それは駅を造るときに宇田と惣郷の集落が誘致で話がまとまらず、その中間点に駅を造ったからと聞いた。東京の中央線にもそんな駅があるらしい。国分寺と立川の中間にある駅が国立。うその話か本当の話かわからないが、今となればどうでもいいこと。

地方の鉄道駅は少なくなるが、道路に駅ができる時代になった。全国にある「道の駅」発祥の地が阿武町にあるが、駅としての機能をそれなりに果たしている。昔の旅は駅から始まり、駅で終わるといわれたが今も変わらないと思う。船に乗ろうが飛行機を乗り継ごうが、最寄りの駅や途中の駅から始まることが多い。

宇田郷駅の前に世界で三番目に有名な横断歩道がある。一番はロンドンのあるスタジオ前、二番は渋谷のスクランブル。しかしこのランキングはすぐに変わると思う。それは私がなんの根拠もなく決めたから。自分の好きな食べ物や場所は勝手に決められるから楽しいが、なにかで自分の気力が弱まれば考えもさみしくなる。だが自分だけの好きな場所が宇田郷駅にある。

外からみれば田舎暮らしはのんびりしているようだが、それでも気力がなくなれば一人では暮らしていけないところかもしれない。

 

 


さ く ら の 木

 

漁村を見おろすお地蔵様の高台に一本だけサクラの木がある。海からの冷たい冬風に耐えて咲く花は村人と同じ気持ち。気ままな咲き方をするが、厳しい冬の終わりから漁村は春の景色になる。生まれたところで今は暮らすが、私はすぎてきた東京のサクラを思い出す。住まいが武蔵小金井で勤めが上野の近くにあっただけのこと。街のサクラ効果を考えて植えられた小金井公園や上野公園のサクラは花も見事だが、花見は日本の文化だ。あのころは街にサクラが咲くだけで楽しくなった。会社仲間と羽目はずしの夜桜宴会にふけったが、私の役目はお昼すぎにシートを一枚預かり、会社をこっそり抜け出すことだった。それでもグラスに花びらが浮く風流な場所の確保は大変だった。夜ザクラで仲間と飲む酒は、タクアンがタマゴ焼きに見えるという、理屈抜きに楽しいもので江戸の時代も今も変わらない。そのころは仕事で福島県に行くことが多く、郡山周辺で何本かのサクラの古木を見かけたが、大樹を見ただけで長い間村人たちが大切にしてきたことがわかるようなサクラの木だった。漁村のサクラは風格こそ感じないが、集落のだれもが身近な春を感じる。

春になるとサクラが咲くが、人それぞれ「さくら」へのおもいはある。

 


大 敷 網

 

尾無には大敷という大型の定置網がある。昭和の初期ごろ、厳しい暮らしの中で漁村の繁栄をと集落の家々が出資し、株主兼従業員で運営した。網の基本設計と漁労長は高知から呼び寄せた漁師があたり、現在もその組織と漁法が伝わっている。海の荒れる冬場は浜や小屋で資材を製作し、網の本体が出来上がる春のお彼岸すぎのシケが終わると網を海に仕掛ける。今では網やロープ、浮木は化学製品で作られているから破損しないかぎり数年使用できるが、以前の資材は稲ワラのロープ、麻の網で作られていた。ガラス球の浮木、モウソウ竹を束にしたブイなど、今思えば魚の集まる資材で環境にやさしいが、強度や手間や扱いを考えると今は使えない。魚の回遊路に垣根を造ると魚は習性で深い海の方へと伝う。その先にある箱型の網へ泳ぎ、その部分の網だけを毎日揚げて魚をとる。イワシなどの小魚からイカ、アジ、タイ、ブリやマグロなどの大物までとれるが、いちばんの大物はクジラ。網の構造は約500メートルの道網部分と魚が迷い込む本網部分があるが、仕掛けはかなり複雑だ。定置網も魚網会社で改良され、高い確率で魚がとれるようになったが、魚の資源は減ってきた。子供のころには浦々に大敷網があったが、今は山口県の沿岸には数箇所しかない。

中でも集落の人々が出資する昔ながらの形態で、しかも3隻の船で操業する古いかたちの大敷網では尾無浦大敷組合だけ取り残された。それも社会の移り変わりや自然環境の変化で存続することがだんだんと難しくなった。年配の漁師いわく、昔は船に積みきれないほどマグロがとれた。

尾無の朝ははやい。東の空が白みはじめると集落のどこからともなく漁師が港に集まる。3隻の船に13人が分乗した大敷船が大きめのエンジン音を響かせて港を出る。10分もすれば漁場に到着するが、いつも網を揚げていく作業は楽しみだ。まれに網を揚げている途中でブリが泳いでくることもあるが、徐々に網が狭くなり魚が集まる。それを大きなタモですくい上げ船倉に入れる。動き回る魚とその作業は漁師以外の人が見てもいい光景だと思う。しかし毎日がそれなら漁師も蔵が建つが、クラゲが網いっぱいで取り出すのが大変でおもしろくない日もある。海は不思議で、あの大きな網に小魚が数匹の日もある。魚は漁協のある港まで船で運び、箱に詰めて一時冷蔵庫に保管され市場に出される。魚を出荷して大敷組合の作業がそれで終わる。午前八時ごろ港に帰るが、漁師はこの時間にひと仕事終えた船上でささやかな満足を感じる。その後は個人の仕事で釣り漁や建網漁をして一日をすごす。

漁村では大敷網漁も大切なコミュニティ。

 

 


新 宮 山

 

集落には紀州熊野に関係した地名が多い。尾無は御那智で、新宮山は新宮市からと、昔からの言い伝えがある。海抜500m足らずの山だが、三角形をした美しい山で海から見るとひときわ目立つ。山頂近くに神社があり、そこまで1,478の石段でつながる。

子供のころは遊びの山登りとして年間何回も登っていたが、今は奥宮のお祭りに登るだけになった。草薮になった棚田道をしばらく歩き、その先は急峻な石段を登る。若いころは山歩きもしたが、長い石段を延々と登るのは結構きつく、歩く楽しみもなくただ目標に向かうだけである。それが子供のころは、雪が降っても暑い中でも喜んで登った記憶もある。秋になればアケビやキノコを採りながら山を楽しんだが、その山はヒノキが植林され薄暗い山道になった。山は集落で管理をしているが、ヒノキがお金になるまでは後数十年はかかる。我が家にもわずかばかりのヒノキやスギの山があるが、木材価格が安いので間伐も枝打ちも手入れもしないから、木材としての価値もなくなった。先人たちは土着性が強かったから森や田んぼを大切にしてきたが、私自身も田舎にいながらにして世界が見える時代のせいか、気持ちも変わりやすいし辛抱もしなくなった。

人それぞれだが、新宮山から見おろす素晴らしい景観は、手入れをしない山の木より値打ちがあるかもしれない。

 


漁 村 の ま つ り

 

日本中のどこの街にも村にも神社はある。海沿いの坂道から棚田道を歩くと、御山神社はある。境内には大きなイチョウの木と、裏山はシイの木がうっそうと茂る鎮守の森、どこにでもありそうな神社。その場所で季節ごとにまつりがあるが、近頃は昔ほどの賑わいはない。子供のころは参道まで露店が並び、それは賑やかで近郷から人々が集まった。家では親戚がお客さんで、新鮮な魚と酒でもてなした。距離は近くても日頃は会話だけで会食をしないから、まつりで身近な出会いを夜遅くまで楽しんだ。子供たちもいつもは十円の小遣いだが、その日には数百円の買い物ができた。買うおもちゃの大半はブリキで作られていて、中でも紙火薬をロール状に巻いた音だけを楽しむ連発銃が人気だった。その子供だった私が今では氏子総代をしている。人がかついだ神輿を軽トラックに載せるなど、かたちを変えてもまつりの継続はしている。田舎で暮らす人が減ってきたからそうなったが、数百年の田舎歴史の中でもここ数年の移り変わりは、安定していた集落コミュニティに影響を与え、田舎の時代進行を速めた。

働きづめの時代に田舎の先人たちは、まつりを骨休みといって貴重な休暇としていた。それと自然の恵みにも感謝していた。

 


ワ カ メ

ワカメは日本の各地で水揚される。冬場から春にかけて、あまり深くない海底の岩場に生える海草で、海に潜るとそこらで見かける。乾燥した製品のほとんどは養殖されたものだが、尾無の漁師は天然物で天日干しの手間がかかった風味あるワカメを家族で製品にしている。養殖ワカメはロープに菌糸を巻きつけ繁殖させるので、収穫も一度に大量にできるが、天然ワカメは小船を漕ぎ、箱メガネで海底を見て、長い竹竿のカマで刈りとる昔ながらの磯見漁法で今も行われている。波や風があると船が止まらず、技術で個人差も出るが辛抱が水揚につながる。我が家も親父が刈ったワカメを家族が天日で干して出荷していたが、天気の安定しない日は竿にかけたワカメを小屋に入れたり出したりと手間がかかった。それでも雨が二日も続けば品質が落ち、廃棄処分していた。漁村の仕事は家族の協力がないとできないが、ワカメほど手間がかかる仕事は他にない。海草を食材にする国は少ないが、昔から尾無では節分をすぎると春の仕事にワカメを刈ってきた。

ワカメをまぶしたおにぎりは、微妙なうま味と海辺の風の味がする。

 


加 州 丸

 

加州丸(かしゅうまる)。名前と船がミスマッチの小さな漁船。20年くらい前に進水した船で、くたびれかけたエンジンと型の古い船体だが今も現役で乗っている。船名は自分の名前や地名に関係する字を使ったものが多いが、おもいやあこがれでつけられた船もある。親父の船は「芳助が栄える」で芳栄丸だったが、私はその当時あこがれていた「夢のカリフォルニア」から加州丸にした。新造船で季節によりイカ釣り、タイ釣りと漁を変えて、中でも夏から秋にかけてのヒラメの一本釣には夢中になれた。80年代は魚の資源も豊富で、うだつのあがらない私のような漁師でも多い日で十数匹、少ない日でも数匹は釣れ、価格も高く一匹4万円もするような大物ヒラメも珍しくなかった。それが90年代の後半から釣れるヒラメも減りだし、そのうえ不況による魚価の低迷で近頃は水揚もめっきり減ってきた。それでもその漁期になるとヒラメ釣りをやっている。イカ釣りやアジ釣りに変更することもできるが、これらの資源も同じでかなり厳しい漁となった。漁師も資源管理や栽培漁業でその対策もしてきたが、巨大クラゲの異常発生など海の環境も変わってきた。

海辺で育ち、小さいころから魚釣りをしているが、遊びの釣りも仕事の釣りも、釣れたときの楽しさはいくつになっても変わらない。

 


角 の な い 牛

 

山口県の北浦地方には角がない和牛がいる。子供のころは牛が田んぼを耕していたのでそこらで見かけたが、今は200数頭が生存するだけになった。大正時代にイギリスからの父と、和牛の母から生まれた牛が始まりで子孫が繁栄したが、耕うん機の普及で農耕牛としての必要がなくなった。しかしこの牛は別の面に特徴がある。それはイギリスの美味しい肉牛と日本の美味しい肉牛の子孫で、黒毛和種に比べると脂肪分の少ないヘルシーな肉で、食べると素朴な牛の味がする。月にほんの数頭だけ市場に出るが、肉は希少で限られた店頭に並ぶだけである。

海を見おろす荒廃した棚田に無角牛が数頭放牧されている。牛はなにも考えないで時間をすごしていると思うが、お腹が空けばそこらの野草を食み、のどが渇けば水を飲む。閑散とした風景の中でのんびりのびのびと夏をすごした母牛も秋をすぎるころ出産する。そんな牛がいる田舎の風景が集落の周りにある。

田舎にはそこらの道に牛の糞があって不思議でない時代もあった。

 


浜 辺

 

浜にもいろいろあるが、尾無の浜辺は砂利浜。子供のころ、浜辺は遊び場でもあり大敷網の干し場でもあった。今その場所は漂着ゴミの溜まり場として姿を変えてしまった。人類が化石燃料を燃やし、化石製品を製造するようになったことが原因で浜辺のゴミが増えたと思うが、昔から浜辺は海を浮遊する物が集まるところ。浜に寄るから海のゴミがなくなる。ヤシの実や流木なら唄にもなるが、不要の漁具から生活用品、産業用品などのさまざまな物がそこらの浜辺に漂着するようになった。浜辺は海のフィルター機能をもっているが、近年は目詰まり状態になった。海に浮く物は回収できるが、沈んでしまった物は海に溜まるだけ。浜辺はだれのものでもなく管理も大変だが、だれかがゴミを捨てないか、掃除をしなければ「はまべのうた」のような風景には戻れない。海に囲まれた長い海岸のどこでも同じことがいえるが、近頃はきれいな浜辺も多くなってきた。それはだれかが浜辺を掃除しているからだと思う。

浜辺は不思議なところ。砂浜では砂が鳴き、砂利浜では小石と波が奏でる。

 

 


中 学 校

 

どこの町にも中学校はあるが、田舎で見かける校舎のほとんどは終戦後の物がない時代に急いで建てられた校舎。歩けば廊下がきしむ木造の老朽化した建物で、つい最近まで数人の生徒と先生が大切な時間をすごしていた。その学校も1960年代は生徒が多く、学年で100人近くいたが、いつの間にかサッカーもできない人数の中学校になり、今では廃屋が残るだけになった。子供たちは各集落からバスに乗り、統合された町の中学校に通うことになった。

増えたものがお年寄りで、減ったものが子供、それが田舎のまぎれもない現実。世間ではゆとりあるとか、地域に密着したとか、教育改革とかいわれているが、この廃校舎をみれば複雑で言葉が見当たらない。ひとつひとつの思い出よりも、すぎさった時代のさみしさを強く感じる建物。そんな学び舎で育まれた中学生だが、いつも元気な笑顔が絶えなかった。

あの時代は自然体で学んだような気がする。

 


松 の 木 

 

クロマツは海辺のいたるところに根を生やす。岩場や砂浜であろうが断崖であろうが自生する。子供のころ、海沿いの通学路に樹齢数百年の大きな松の木が何本かあった。浜辺の菜園場にも海の方向に斜めに生えた大きな二本の松があり、夏は日陰をつくり人が休んだ。「鳴き砂」の清ヶ浜は、白い浜辺と緑の松原だった。それがいつの間にか松が枯れた今、その場所には新たに植えた数年の幼木があるだけ。松枯れの原因はマツクイムシらしい。山にも戦後植林されたクロマツが方々にあったが、これもすべて枯れてしまった。神社などに生き残りの松もあるが、よく見ると薬剤散布用のホースが幹にはわせてある。

尾無港から数分のところに宇田島という小さい無人島がある。アンパンのような形をしていて周辺は断崖だが、上部は雑木にまぎれて何本かの松の木があった。その松も枯れてしまったが、なぜか一本だけは枯れないでいた。昔の漁師は漁場の位置を山や島の重なる線で記憶したが、そのときに大きな松も目標になった。現代は衛星の電波を受けて自分の位置がわかるようになったが、今でも昔ながらの山止めを併用している。古くから海岸に緑があるとブリなどの回遊魚が、より岸辺のコースをたどるともいわれている。

海辺の松原を風が吹きぬけるとき、なにかさわやかな音がしたことを思い出した。

 


消 防 団

 

人の生命や財産を災害から守る組織として、全国の街や村に消防団がある。自治体が設備や機具を整備するが、団員は住民で組織される。尾無の集落は町内でも小さな分団で私も団員の一人である。

町に消防署がないから、災害が発生すれば漁業の仕事中であろうが夜中であろうが、すぐに機庫に集まり災害現場に出動する。

20年くらい前は20名近く団員がいたが、今では11名になった。これ以上人が減れば分団活動が困難になる。高齢社会の中で団員の補充はできないが、古くから田舎の財産はそこで暮らす者が守ってきた。その対策もいまだみえないから、多少は年をとっても現役でいるしかない。漁村集落は人が歩く道が複雑に入り組んでいるので土地勘も必要だし、大型機械が使えない場所も多い。田舎は外から見れば事がおこらないかぎり話題にもならないが、消防団も訓練と整備は日頃から怠らない。

災害は忘れたころにやってくる。過疎はそこまでやってきた。

 


ホ ー ロ ウ 看 板

 

田舎を歩くと、家屋の外壁に貼り付けられた古びた鉄の看板を見かける。電波や印刷物が津々浦々まで普及しなかった時代に取り付けられたと思う。今となれば無用の看板だが、なんともいえない存在感を感じる。役目を終えたさみしさと、すぎてきた時代の温もりを錆びた看板が無言で物語る。広告はテレビのおかげで瞬時に全国の大勢の人が観ることができるが、ホーロウ看板の時代はあれでもかなりの宣伝効果があったと思う。ペンキで書かれた看板は数年で薄れてしまうが、この看板は色落ちしないし錆びないから、今でも現役で残ることになった。街で見かける短期で大型のポスター時代と共に生きることが必要かもしれないが、田舎の時間は遅れて流れることが現実としてある。それがここにきて、時間と生活が都会に近くなってきた。田舎のメディアも表向きは進歩しているが、高齢者が多く、どこまで波及するかわからない。

広告の多くは都市集中社会の街で暮らす人が対象で、田舎になくても不便を感じないが、田舎もホーロウ看板からテレビ、インターネットと時代は移り変わっている。

 

 


生 活 用 水

 

集落のどこの家にも井戸がある。子供のころは手押しポンプで水を汲み、炊事や洗濯に利用した。それが電気ポンプの家庭水道になり、数年前に簡易水道となった。下水道も整備され、便利で快適ではあるが水にお金がかかるようになった。漁村の井戸は地下水が乏しく、夏場に枯れやすく、どこの家も水で苦労をした時代があった。

簡易水道の貯水池を造るために山間の川をせき止めた小規模ダムができた。そこには江戸時代、「たたら製鉄場」として一つの集落があったらしい。その一部は水没したのか、調査後埋め戻したのかわからないが、国の史跡として指定されている。そこに説明の看板はあるが草薮で集落の跡形もない。炉に砂鉄と木炭を交互に入れて燃焼させ、三日三晩の作業で2〜3トンの鉄の固まりを生産した。アニメ映画でその模様を観たことがあるが、和鉄精錬法は過酷の作業だった。その谷川も今は3つの集落の家庭に配水され、生活用水として利用されている。

時代が変われば資源の価値観も変わり、人の暮らしがなくなれば草木も生え、それもいつかは忘れられる。

 


た ば こ の 販 売 機

 

子供のころ、尾無には2つの駄菓子屋があった。あれから40年がすぎた今は、集落にはジュースとたばこの2つ自動販売機があるだけ。子供は学校から帰ると行くところはいつも決まっていた。まず駄菓子屋へ行き、クジが付いた菓子を買う。子供たちは大当たりに魅せられて買うが、なぜか特賞は売り切れ前に当たる。なにか仕組みがあると思うがそのころは疑いもしなかった。昔の漁師はタバコを吸う人が多かった。漁に出るときも網仕事をするときも枕箱というキリの木で作った枕を持ち歩いた。その箱の使用目的はタバコ入れだが、引き出しには釣り針から小銭までいろいろな小物が入っていた。いつごろまで持ち歩いたかわからないが、今では漁師の記憶から消えた。昔の漁師は酒も飲んだ。飲む量も半端ではなかった。大漁の度に酒を飲み、月初めの一日は御神酒を酔うほど飲んだが、健康のためとかあまり考えない時代もすぎて、今は酒もタバコも控えめにする時代になった。小さな漁村集落にジュースとタバコの自動販売機は必要だからそこにある。

田舎で暮らして本当に必要なものはなにか、医療や仕事の次はそこで暮らす人それぞれの答えが出る。

 


漁 港

 

そこで暮らせばなんともないが、漁港には実に不思議な物が多い。なにかに使う道具や設備だろうが、日頃は街で目にしないだけの物。小船を陸に引き上げるための道具にウインチがある。尾無港内には手動の船引機が小船の数だけあり、2つの大小の歯車をハンドルで回しワイヤーを巻き上げるシンプルな構造だが、よく見ると素晴らしい。ハイテクで機械が機械らしくなくなった時代の中で、おそらく千年以上前から変わらず使われている機械はこれ以外に見当たらない。

港の見晴らしが良い所に一本の高いモウソウ竹が立っているが、先端に輪がありそこからロープが垂れている。そこに風呂敷が揚がる日もあれば、吹流しが揚がる日もある。それは操業日などを漁民に伝える目印として使われる。集落に拡声器もあるが、音の伝達はそのとき聞き逃せば伝わらない。旗を揚げるシンプルな伝達方法で、古くから使われた手法が今も現役で使われる。船をつなぐロープの結び目が面白い。もやい結びは海でも山でも多用する。いつごろ考えられたかわからないが、世界中のだれもが認める確実なロープの結び方。

時空をこえた素晴らしいものでも、それが今も日常ならだれも気がつかないし、遺産にもならない。

 


夏 だ い だ い

 

尾無では夏みかんのことを「ダイダイ」と呼ぶ。子供のころはそこらの野山に夏みかんの木があった。我が家にも小さい夏みかん畑があって出荷をしていたが、昔ながらの酸っぱい品種は加工用となり値段が安くなった。利益が上がらなくなった夏みかんから、当時儲かっていたキュウイフルーツに植え替えたが、漁師の片手間で品質が悪く、果実は加工用になりわずかな収益だった。いつの間にか畑の手入れもしなくなり、今では夏みかんとキュウイの木は残っているが、果樹園としての名残があるだけになった。

この地方に夏みかんの木が多かったのは、明治初期、収入を失った武士を救済するためにある元藩士が奨励したといわれ、屋敷内やそこらの空き地に植えられた。それが始まりで周辺が夏みかんの産地となった。品種改良で甘くて見た目もきれいな甘夏みかんの時代になっても、萩の旧城下では今でも当時の夏みかんが景観として大切に保存されている。大分県でウメの木を植えて町を豊かにしようとした人の話を聞いたが、アイディアもだが豊かな地域にしようとする人の情熱を強く感じた。

町が人をつくるのか、人が町をつくるのかわからない、それが田舎の現状。

 


合 併

 

尾無の集落には山と田んぼと漁港がある。私は森林組合員でもあり、農協組合員でもあり、漁協組合員でもある。ここ数年で森林組合が合併して、農協が合併して、漁協が合併した。いずれも広域が一つの組織になったが、過疎の進む田舎ではその組合や産業形態を維持するには合併以外に策はなかった。山の木も農産物も水産物も全国に多くの産地があり、今は品質を見るよりも産地名で物が売れる。従事者の高齢と産物需要の減りもあるが、木も野菜も魚も市場で価格が決まる。市場は競り場で、品質と量と産地で価格が決まるが、出荷調整のきかない魚は多くとれれば安くなる。以前は地元漁協で一日に朝方と夕方の2回セリがあったが、今は市場統合で魚は箱に詰め、集荷の車に乗せるだけになった。その合併した漁協もまた合併で、山口県内が一つの漁協になろうとしている。そうなれば資本金不足で組合員一人当たり数十万の増資が必要だともいわれている。漁民は漁をするにも厳しいが、組合の存続も厳しい。

平成の大合併で近隣の町村は萩市と合併したが、阿武町は単独町政を選択した。厳しい地方財源の中で住民が暮らしていくことになり、期待もあるが不安も隠せない。

田舎で長く暮らせば、別の場所では暮らせない不思議な居心地を感じる。

 


里 帰 り

 

お正月と、お盆と、ゴールデンウィークには田舎の人口も少し増える。普段の都会暮らしから休暇を故郷ですごす人々だろうが、そこには人の出会いがあり、美味しいものが食べられるし、自然もあり、あまり気をつかわないですごせて、格安で宿泊できるから里帰りの田舎は魅力もある。いつも田舎で暮らしている人の多くは、生まれたところで暮らしているから故郷の価値観はそれとはちがう。親や兄弟が田舎で暮らすから故郷があるが、地方の過疎化が進むとどこかでだれかの故郷が消えることになる。

昔の田舎には「やぶいり」という風習があった。暑い最中の8月16日は、嫁いだ娘や丁稚奉公に出た子供たちが親元に帰れた。帰る人も実家で待つ人も働くだけの毎日から短い休暇がとれた。別になにをするでもなく特別な料理を食べることもないが、その故郷の空間を互いにすごすだけでリフレッシュできた。里帰りはその受け皿がないとできないが、昔から必要だから今も続いている。

「こきょう」と読むか、「ふるさと」と読むかのちがいはあるが、幼年期をすごした場所が故郷と呼ぶなら、だれにもどこかにある。

 


漁 師 の 会 話

 

漁師の会話は声が大きい。海は音の響く場所がないから音量を上げないと相手に伝わらない。それに波や風に加えてエンジンの音もする。大敷網は共同作業で魚をとるから、迅速で正確なチームワークが要求される。だから確実に意思が伝わるよう大声になり、それに予期せぬ危険も多いから、つい怒鳴り声にもなりがちである。

尾無では相手の名前を呼ぶときに氏名をあまり使わず、屋号や頭文字読みが多い。それは集落に同じ姓が多いからか、姓がない昔の時代の名残かわからないが、我が家は川のそばに家があるので「川の端」と年配の人は呼ぶ。茂刈達美だから「モタツ」と呼ぶ人もいるが、子供のころから同じ集落ですごしてきた仲間は、50をすぎても私のことを「タッチャン」と呼ぶ。尾無のニックネームはだれが聞いてもかわいいし、口からすんなり出る。60近い漁師が今も「ヒロー兄」と呼ばれるが、別に違和感のないことが不思議だ。世間では相手をあだ名で呼ぶことを悪いことのようにいうが、その人を表現する名は昔からあり、時と場所を考えて使えば親しみを感じる。

漁師の冬場は朝早くから焚き火を囲み世間話で暖をとり、厳しい海へと向かう。

 


 

田 舎 で 暮 ら す

 

1949年、山口県の日本海に面した漁村で生まれて今もそこで暮らすが、ゆっくり流れてきた田舎の時もその環境もここにきて急速に変わりだした。

田舎にいながら都会暮らしができるような、生活環境が豊かな暮らしとも思えるような便利な地域づくりのおかげで、我が家も快適な暮らしができるようになった。そんな時代も行き詰まり、次の新しい時代に変わるということはなにかを失うことにもなる。

我が家の生活基盤は水稲(70a)と漁業が100年以上も生活の糧となっていたが、田んぼは少しずつ作付面積を減らし、3年前に耕作をやめた。今では海を見おろす棚田は荒れ果てたが、なぜそうしたかは田舎で暮らしてみればわかると思う。漁業も水産資源が減ってきたうえ、魚価格の低迷や市場統合で出荷経費が増えて厳しいが、つぶしのきかない私には唯一の収入源である。その改善策も試みたが、急激な社会情勢や自然環境の変化には太刀打ちしても歯がたたない。

地方で日々をすごさなければならない人々にとっては、これからなにかを探すよりも、今あるものを大切にすることがなにかの救いになるかも知れない。それはそんなに力まなくてもできると思うが、そこでは日々日常で現実としてありながら価値観は潜在している。

 

田舎の人の日常が街の人からみれば非日常になるので、双方の価値観を考えると、これからの里・山・海の空間はお互いの共有感で描きたい。これまでの農山漁村の開発は街のコンサルタントや学識者に自治体が丸投げする傾向が強いので、その目線が開発した里山空間ができあがる。それもこれから厳しくなる地方財政でいえなくなる。費用対効果の比率や内容も問われるが、厳しくなるほど遊び心ややすらぎも必要な予算かもしれない。

街の人が農山漁村に滞在して余暇をすごすことで田舎が存続できるかもしれないが、それをビジネスとして考えている人もいる。農山漁村の振興は必要だが、その環境は微妙で受け皿は思いのほか少ないので器にあったメニューを考えたい。メダカの泳ぐ小川に観光バスで乗りつけるようなことは避けたい。バスは次の小川に移動できるが、メダカや里の人はその場所から動けない。それでも時代はグリーン・ツーリズムやスロー・ライフ、ヒーリングと多様社会のニーズとして田舎に目を向けてくる。

里山海はだれのものでもない。それでもそこにはローカルなルールが必ずある。

 

文 茂刈達美 写真・構成/宮下裕史 2005年春

 



 

旅 路

今年の冬、尾無を訪れた。この冬は特に厳しい寒さだったといっていた。この場所を訪れてもうじき6年経とうとしていた。でも、この冬から春にかけての日々はなにもかもが新鮮で、そして特別だった。

 

僕等は海辺にある漁具小屋、地元では「浜の小屋」と呼ばれている小屋を改装した。4畳半ぐらいの、ちょっとした住家をつくった。完成してから僕はその場所で一日の大半をすごした。夜、寝袋にくるまって寝ているときのことを思い出す。防波堤に打ち寄せる波音が響く。北風が吹きつけ、窓がガタガタと揺れて何度も目を覚ました。寒くて小学生以来、足の指がしもやけになってかゆくてたまらなかった。まだ太陽が昇らない朝早く、漁師たちの声、船のエンジン音で目を覚ます。時々近くで暮らす漁師が顔を出す。フナムシも顔を出す。そんな部屋でいろいろなことをおもった。すぎさったあの日のこと。出会ったさまざまな人。心に響いたことば。別れたあの場所の風景。届けられた手紙。そして僕等のいままで。そして向かうべき場所。

 

冬から春にかけて、数ヶ月間のそんな田舎暮らしの中でさまざまなことが移り変わっていった。※最後の特急列車を見送った。冬から急に春がやってきた。定置網の準備がはじまった。畑仕事がはじまった。新たな町政が動き出した。何人かの仲間は新しい場所へと旅立った。定置網漁がはじまった。サクラが咲き、そして散り、山々は新緑になっていく。そして僕等は55、30になっていた。

※注)この日を最後に山陰本線益田〜下関最後の急行列車「いそかぜ」が廃止。(HP編集者)現在は各駅停車の普通列車のみ

 

だけども季節が変わろうとなにかが変わろうと、僕等は相変わらずだ。出会ってからこの6年、いや、出会うずっとずっと前から僕等は変わらない、変わりようがない。そして6年前に僕等はこの場所で出会った。年齢、暮らす場所をこえて、うまく言葉にできないけど僕等はひとつに向かっていた。いまなおその途中だ。毎晩お酒を飲みながらどうでもいいことで熱くなったりすることもある。愚痴をいうこともある。熱くなりすぎてケンカすることもある。でもどこかでお互いを尊重している。毎晩お祝いだ。

 

 これから先もおもう。僕等はそれぞれの場所で暮らしてゆくだろう。そしてもう、こんなにも濃密な数ヶ月間を共にすごすこともないかもしれない。そして確実に年を重ねていく。失っていくものもたくさんあると思う。涙が枯れ果てることもあるかもしれない。だけど、ずっと、そのひとつに向かって僕等は歩みを止めない。

 

 

2005年春 尾無、浜の小屋にて

宮下裕史


編集後記

茂刈さん、宮下さんの世界どうでしたでしょうか。熱い想いを抱えつつ自然体が何より。glocal に生きましょう!

1

HP掲載後、役場職員といつもの夢語りをする茂刈達美さん(写真左)


mogor presents

写真は阿武町惣郷の御山神社参道 奥に見えるのは宇田島


1

1

1

1


1


上の写真は羽田空港から萩石見空港へ向かうANKの機内で撮影


1


どこでもない場所へ、ようこそ。

山口県の日本海側に小さな漁村がある。どこにでもありそうな風景。でも、ひとつだけちがうところがある。

それは街から遠く離れているとこと。そこは街で暮らす人たちからみれば非日常。

そんな、なんでもない浜辺でのんびりすごしてみませんか。

 

海辺はふしぎなところ。砂浜はあそびごころ。じゃり浜は小石と波のハーモニー。岩場は語らない厳しさ。

愛をはぐくむ防波堤。

気どらない漁村のたたずまい。日常と非日常の入口トンネル。 

なんでもないけど、なんでもあるところ。


文 「浜の小屋」茂刈達美 写真 宮下裕史

阿武町役場

〒759-3622山口県阿武郡阿武町大字奈古2636番地
TEL08388-2-3111 FAX08388-2-2090
Email:kikaku@town.abu.yamaguchi.jp