先生たちが下宿し、婦人会が集うにぎやかな場所
家族の思い出がつまった 三吉家
奈古の中央通り。阿武町役場や阿武町暮らし支援センターshiBanoから徒歩すぐの場所にあり、阿武の鶴酒造のとなりに建つ三吉家は、敷地に踏み入れると、その奥行きに驚かされます。オーナーの三吉靖子さんの祖父母の代には、下宿を営み、学校の先生たちが下宿して、にぎわっていたそう。
そのファミリーヒストリーと、この家での思い出を語っていただきました。
〈取材・ラボ研究員〉
写真:吉岡風詩乃 文:石田洋子
取材日:令和2(2020)年5月13日
三吉家の母屋は、大正時代に建てられました。
勝手口の土間は、かつて台所だったのでしょう。立派な井戸があり、年代を感じさせる滑車が存在感を放っています。
勝手口から家に入ると、リフォームされてダイニングキッチンとなっている部屋へ。
この部屋の柱には、いくつもの傷と文字が残されています。靖子さんや妹の朋子さんが子どもの頃、背くらべして身長を記録したもの。
靖子さんは東京育ちで、この家は母・栄子さんの実家。夏休みになると母と新幹線に乗って奈古の家に帰り、海水浴を楽しんだのはなつかしい思い出です。
今はリフォームされてフローリングになっていますが、かつては掘りごたつでした。靖子さんが祖父母たちと過ごしたあたたかな日々の記憶が刻まれています。
靖子さんの記憶をたよりにファミリーヒストリーを伺うと、ご先祖さまとなる高祖母(ひいひいおばあちゃん)について聞いたことがあるとか。
通称、「トキばあちゃん」は、とてもひょうきんな人で、入れ歯をはずして見せる一発芸で、周りの人たちを笑わせていたのだそうです。
曾祖父にあたる、卯一(ういち)さんは、警察官でした。曽祖母に当たるユリさんは、100歳まで生き、長寿をまっとうされたそう。
靖子さんの幼少期にあたたかな思い出を残した祖父、正晴(まさはる)さんは小学校の先生でした。昭和50年(1975年)に、勲五等瑞宝章を受賞したそうです。
温厚で優しい人柄だった正晴さん。校長先生をしていたころ、幼い靖子さんは、縁側で正晴さんの膝に座り、ひなたぼっこをしていました。
祖父との思い出が残る縁側
祖母ツユ子さんはやり手で、民生委員や婦人会活動をしたり、詩吟や和裁の会をしたりと活動的な女性でした。
下宿屋をするようになったのもツユ子さんの力が大きかったようです。
1階の和室は詩吟や婦人会の集会所。2階の和室は、和裁の場所。いつもご近所さんが出入りしていました。
昭和39年に建てられた離れと母屋の2階の部屋には、それぞれ学校の先生たちが下宿していました。
先生に会いにくる生徒たちも訪れ、にぎやかだったそうです。お風呂は家族と共同だったため、大渋滞。
基本的に下宿している先生たちが先に入るようになっていて、靖子さんたち女性陣のお風呂が長いことがわかっているから気を遣って、パパッとすませてくれたりしていました。
そんなわけで、この家には家族用と下宿していた先生たち用に、玄関が2つ並んでいるのです。
離れは、こじんまりとしていて、建具がかわいらしく落ち着く空間。
離れ
2階
母屋2階の部屋からのぞく屋根裏。昔ながらの木組に圧倒されます。
味のある階段ツユ子さんや家族の表彰状が並ぶ洋間
靖子さんの母である栄子さんは、三吉家のひとり娘として大切に育てられました。
成績優秀で萩高校から東京女子大学へ進学。島根県の益田出身で、会社員をしていた舜三さんと結婚してからは、2人の娘に恵まれ、専業主婦として東京、神奈川、大阪などで暮らしました。洋裁や編み物をするのが好きだったそうです。
残念ながら50代で亡くなりました。
靖子さんが弾いていた思い出のピアノ
靖子さんと一緒に阿武町にやってきた
その後、祖母・ツユ子さんの病気をきっかけに、父・舜三さんと二人、関東から奈古のこの家に引っ越し、祖母と暮らすことになりました。
このときに浴室をリフォーム。新しくなったお風呂は広々として快適です。キッチンもオール電化に。畳や外壁も取り替えました。
舜三さんは裏の畑で家庭菜園をして阿武町暮らしを満喫。夏になると遠方からたくさんの友人知人が遊びに来てくれました。
和室には立派な神棚
ツユ子さんを看取ったあとは、二人で日本全国、世界各地へ旅行に出かけたりもしました。
シンガポール旅行にて。靖子さんと父・舜三さん
最後は、脳こうそくを患った舜三さんとの晩年をこの家で過ごし、2年間の介護経験は何より大切な時間となりました。
家族の思い出がつまった三吉家。東京育ちだった靖子さんですが、「今では、ここがふるさとだと思っています」と語ってくださいました。
*思い出不動産プロジェクトは、まちの歴史や家主さんの想いを取材し、不動産情報だけの役割を越え、まちの記憶帖として発信しています。
そのため、住居及び店舗を手放す予定がない物件も、掲載しております。