大敷(おおしき)会館
コバルトブルーの日本海を望む宇田郷の港に建つ大敷会館。二階建ての木造建築は、年季が入った外観ではあるが、見事な存在感である。
魚の形をした小さな窓がかわいらしい。鰤(ブリ)を表したもので、ステンドグラスになっている。
かつて、この大敷会館は、地域になくてはならないものだった。
結婚式、お葬式、宴会。何かあれば、人々はここに集まった。
今では、かつての賑わいはなく、漁協の物置としてひっそりと、しかし、堂々と建っている。
〈取材・ラボ研究員〉
写真:吉岡風詩乃 文:石田洋子
取材日:平成31(2019)年3月9日
大敷会館が、建ったのは昭和27(1952)年。まだ、宇田郷が合併して阿武町となる前の宇田郷村時代のことである。
話は戦後にさかのぼる。
敗戦後、物はなく、仕事もない村で打ちひしがれていた人々は、昭和23(1948)年、「漁業で村をたてなそう」と立ち上がった。高知県から鰤大敷網漁(定置網の一種)の専門家を招き、宇田郷でも大敷網漁に取り組むこととなった。
横村さんはその頃、小学校を卒業して進学したくても経済的に難しく、泣く泣く漁師になったという。
当時、本当によく大きな鰤が捕れて、村は大漁に湧いた。
大漁旗を揚げたたくさんの船が帰還すると軍艦マーチが流れる。学校で授業中だった子供たちも、授業を中断して帰還した船を見に来る。そんな光景が日常的にあった。漁師たちは、どんどん稼ぐことができた。
大敷会館に飾られた写真。大漁の様子
大敷会館に飾られた鰤大敷網の模型
その頃の宇田浦大敷組合は130人ぐらいの組合員がいた。その初代組合長であった三好又一さんは大の歌舞伎好き。東京の歌舞伎座まで観劇に行くほどだった。そんな三好さんは、宇田郷村に劇場があったらどんなにいいだろうと考えていた。鰤漁で儲けた資金で、本当に劇場を作ることにしたのだ。
しかし、世間は「こんな田舎に劇場なんて作れるはずがない」と誰も耳を貸さなかった。それでも諦めなかった三好さん。村中の大工や棟梁、左官屋さんを説得して回った。三好さんの情熱が伝わり、村の技と力を結集して、ついに、昭和27(1952)年、漁協の土地に宇田浦大敷組合が建物を建てる形で、大敷会館は完成した。
樹齢何百年もの一本木を使った柱、舞台、花道がある。こけら落としは、女歌舞伎。それは見事なものだった。宇田郷で観劇ができる幸せ。村が生き返った。
泣く泣く漁師となった横村さんではあったが、大敷会館ができて、本当に嬉しかったそうだ。なくてはならない村の希望だった。
その後、炊事場を改装し映写機を導入。当時、萩には三つの映画館があったが、ここ宇田郷で映画を見られることが嬉しく、映画を上映する日は席取り合戦
で大にぎわいとなった。立ち見も出たし、二階席まで埋まった。
映写機が途中で故障して、大勢の観客がガッカリという事態になることもしょっちゅうあったけれど、そんなトラブルも含めて、とにかく活気があったのだ。
しかし、昭和も終わりに差しかかった昭和59(1984)年、地域の新たな拠点施設として漁村センターが建設された。冷暖房完備の鉄筋コンクリートの建物だ。そこから、大敷会館の賑わいは途絶えた。
日本はバブル景気真っ直中。宇田浦大敷組合にも浮かれたバブルの空気が覆っていたのかもしれない。しかし、バブルは続かない。
時代が昭和から平成に変わった頃、海の環境の変化なのか、根こそぎ採ってしまう新しい漁法が出てきて普及したせいか、かつて、いくらでも獲れていた大きな鰤はパタリと獲れなくなってしまった。
横村さんは、宇田浦大敷組合の理事になっていた。約130人ほどの組合員たちの元にもバブル崩壊の足音が聞こえ始めていた。宇田浦大敷組合は、資金繰りが厳しくなって、ついに平成12(2000)年、解散に追い込まれる。
漁協の土地に宇田浦大敷組合が建てた大敷会館も、問題となった。
大敷組合が解散するなら、建物も解体して更地にして返さねばならないという。
そんな資金はどこにもない。
横村さんは、組合員の負担を最小限に抑えるため奔走した。
横村さんには夢があった。もう一度、あの光景が見たい。漁船から上がる大漁旗、軍艦マーチが流れるなか船を迎える人たち。地域の人たちが一丸となった新しい定置網の漁師グループを再生したい。
そんな未来への思いを伝えることで、この大敷会館を漁協に無償で譲渡し活用してもらうことになったのだ。
あのとき、横村さんが夢を語っていなかったら、この大敷会館は残っていなかったかもしれない。
平成が終わり、新しい時代が始まろうとしている。漁師たちの光と影と共に歩んできた大敷会館は、次は何を見るのだろうか。